お玉ヶ池跡
幕末の一時代を風靡した歴史的名所。
お玉ヶ池は、江戸期に現在の東京都千代田区岩本町2丁目5番地の辺りにあった池で、伝承(『江戸名所図会』)によると、ある時、人柄も姿形も似通った二人の男性が、この池の近隣の茶屋にいた看板娘「お玉」に心を通わせ、悩んだお玉がこの池に身を投じたとあり、亡骸は池の畔(ほとり)に葬られたということです。そんな彼女の死を人々が哀れに思い、それまで「桜ヶ池」と呼ばれていたこの池を次第に「於玉ヶ池」と呼ぶようになり、お玉稲荷を建立して彼女の霊を慰めたといわれています。
当時、お玉ヶ池は不忍池程度の面積を有していましたが、江戸後期頃から徐々に埋め立てられて宅地化され、現在では池自体は存在していません。また、北辰一刀流の道場「玄武館」があった場所としても有名で、千葉周作は「お玉ヶ池の先生」と呼ばれていたそうです。この界隈には、儒者、漢学者なども多数住んでおり、江戸の学問の中心地でもありました(佐久間象山の象山書院、東条一堂の瑶池堂など)。